嘔吐恐怖症について書く
嘔吐がこわい。
どれくらいこわいかというと、今自分で打った文字すら不快なくらい。
これでも、昔に比べたらだいぶマシにはなった。
きっかけは、小学校低学年のときになった胃腸炎の苦しさが原因。
それ以来、自他関係なく吐くという行為がこわいので、15年以上どんなに体調が悪くても吐いたことがない。
一番酷かったときは、小4、5くらいかな?食べるということは、吐くという可能性が生まれるということでもあるから、という理由でご飯が食べられなくなった。これを食べて吐いたらどんなふうに出てくるんだろう?とか考えてしまう。脂っこいものはもってのほか、さっぱりしたものしか口にできなかったし、唾液すら不快に思っていた時期もある。
これらの時期がどのくらい続いていたのかは覚えていないけれど、親には全く言えなかった。吐くのがこわくて食べられないなんて、わかってもらえないし、理由にならないだろうと思っていた。
幸いなことにその後、間近で嘔吐に出くわす、ということはあまりなかったので少しずつマシになっていった。今はご飯は普通に食べられるし、金曜日の電車はこわいけれど、乗れないこともない。乗るときに入念に周囲は確認する。
ただ、今でも誰かがトイレで吐いている音さえ無理だし、そのトイレはしばらく使えない。例えば家族が家のトイレで吐いていたとしたら、イヤホンをして大音量で音楽を聴きながら耳を塞いでさらに自分の声でかき消す、くらいのことをするし、道にソレが落ちていたら可能な限り一番遠いところを歩いて、ソレがある方の目を瞑って歩く(できれば走る)。
具合が悪いのはまだしも、吐くまで飲むような人とは絶対に結婚できないと思う。悪阻も怖くて仕方がない。
それはまあ今のところ関係ないとして、問題は映画である。
映画ってなぜだか嘔吐シーンがやたらと多い。しかも、タイトルだけでは絶対に見分けることができない。あれ本当にどうにかならないのかな。血とか性行為とかはR指定でなんとなく判断つくけれど、、、。自分の好きな映画にそういうシーンが多いというのもある。たまに友だちがあの映画は見ない方がいいよとか言ってくれるのは、大変助かる。
とはいえ、病気ではなく恐怖症だから、克服できないこともないらしい。そのためにはやっぱり少し慣れることが大事らしいのだけど、最近大丈夫かも!とか思って町で遭遇すると泣きたい気分になるし脳裏から離れないしで慣れようがない。今後結婚したり、子どもができたりしたら嫌でも向き合っていかなければならない問題ではあるからなんとか克服する方法はないかなあと思います。
いろんな恐怖症があると思いますが、みんなどんな風に克服していっているのだろうか…
新型な生活
今年はいったい何だったんだろうと、不安になることがある。
2020年、多くの人がそんなことを考えているのではないのだろうか。
2020年1月1日0:00、明けましておめでとうと言い合う中で、だれがこんな一年を想像しただろうか。
今年も働いて、合間で遊んで働いて。そのお金でまた遊んだりライブに行ったり旅行に行ったり。そんな日々を当たり前に想像していた。
今年はオリンピックがある。夏には大勢の人が日本にやってきて、自国でやるオリンピックってどんな感じなんだろうと、不思議な感覚だった。だけどそれは、不思議な感覚のまま、8月になってしまった。
今年はいったい何だったんだろう。今年だけならまだいいけれど、こんな生活が来年も続くのだろうか?
今日の感染者は何人、休日は若者で街が溢れかえっている、電車で咳していた人がマスクをしていなかった、俳優の誰々が感染、コロナに感染していたあの人は前日まで出勤していたらしい。こんな話を毎日聞く。この話に出てくる人たちはだれも悪くない。悪いことはしてないのに。こういう話を聞くたびにしんどくなる。だれも悪くないのに。もちろんこういう話をしている人だって悪くない。
ウィルスに感染した人も、広めてしまった人も、別に悪じゃない。悪いのはすべてウィルス。その悪を広めないように、その悪に侵されないように気をつけましょう、そういう話なのに。
感染して療養から復帰した芸能人は、みんな謝罪している。十分に気をつけていましたが、と。謝る必要なんてないよ。
もうみんな、自分のことを考えるので精いっぱい。だれかが感染しても、その人の心配より、その人の行動や症状を分析して、自分に置き換えて考えてしまう。外出するからそうなるんでしょっていう発言は、だから自分は大丈夫だと、自分に言い聞かせるためでもあると思う。
だれも悪くないんだって。本当に。感染するのが人だから、それを悪と勘違いしてしまうのかな。
このままだと、来年もこんな生活が続きそうだ。だからこそ、だれも悪くないのだという意識をいったん再認識できたらいいなと思う。本当に、だれがかかるかなんてわからない。だれかを悪いと思っていると、自分がその悪い人間になったときに、耐えられないと思う。少なくとも私は。
感染して治った人が、謝らない、謝らなくていい、そんな社会であってほしい。
かっこいい山下さん
今週はずっと楽しみにしていたことがあって。
そうです。みんな大好き山下達郎の配信ライブがあったのです。
このために私は週2回の在宅勤務日を木曜日に設定したのですが、週明け早々体調不良になり、
大事をとって今週まるっと在宅勤務になりました。
わたしはそういうところがあります。
まあそれはともかくとして、歴史的な瞬間を目にすることができたのでうれしい限りでした。
初めて歌っている山下達郎を見ましたが、
見た目は普通のおじさん(失礼)なのに、
声を発すると、いつも聴いている音源通りのきれいな声が聞こえてきて、とても不思議な感覚になりました。
何がびっくりってそこなんだよね。
演奏もそうだし、声もブレていない。
本当にいつも聴いている音が、その場で出されている感じ。
配信ライブ結構見ていますが、そこに驚いたのは初めてでした。
ご本人もそうだけど、やっぱり周りの方々の演奏もとてつもなくよい。
鍵盤もすばらしかったし、ベースもずっと気持ちよかった。
あんなすてきなメンバーに出会って、こうやって最高の音楽を作り上げていくのって、どこまでも奇跡だけど、ちゃんと起こりうる奇跡なんだなと思いました。
ハイティーン・ブキ、めちゃくちゃ痺れたな。
これがこの曲の正解なんだなって思ってしまうくらい。
硝子の少年が、Jポップの中でトップ3に入るくらい好きなんですが、あんなにキンキの声で聴いてきたのに山下達郎が歌うと、急に原曲感が出る。
この人ジャニーズの歴史にも入り込んでいるのかよって。かっこよさの後ろでもっとかっこいい仕事をされている。
あんなにレジェンドなのにMCは敬語でギターを弾く指にはずっと結婚指輪が光っていて。すてきかよ。
竹内まりやが、山下達郎は日本の宝だから彼のご飯を作るだけでも立派な創作活動なんだと言っていたという話を思い出した。
テレビに出演しないとか、アリーナクラスのライブをしないとか、勝手にお堅いイメージを持っていましたが、本当はとても丁寧で愛のある方なんだろうなあと思いました。
ライブのいいところって、そういう人間性を知ることができることでもあるんじゃないかな。
なんて、山下達郎について熱く語る24歳OLです。
山下達郎はサブスク解禁していないので、聞くとしたらCDを聞くしかありません。
簡単に聞けないところがまたいいな。
劇場
終わらないという残酷さ。
先日、又吉直樹原作の「劇場」を観に行きました(映画)。
原作は2回読んで2回ともボロボロ泣きました。
本当はもっと前に公開されるはずだったけれど、
憎きウイルスのせいで延期に。
ようやく公開されることになり、
観に行く日も決めたところでまた感染者数が増えてきたので、
また行けないのでは?と思ってちょっと泣きました。
(無事に行けました)
そして映画を観て、また泣きました。
結末はわかっているのに、わかっているから余計泣いて、
終わった後も、何度も何度も反芻してしまう。
何がこんなに心に残り、悲しみを誘うのか?
それはおそらく、”続いていくこと”なのではないか。
大抵の泣ける映画は、「死」に泣くけれど、
本映画(原作も)は、だれかが死ぬとかそういう話ではない。
むしろ、”別れ”の先でずっと続いていく。
精神と精神が別の場所で生き続けていくし、
生き続けていかなければならない。
”終わること”もつらいけれど、
”続いていくこと”もつらい。
この悲しみは、ほかの作品ではなかなか味わえないと思いました。
とても影響されやすい私は、
帰りに又吉直樹の「東京百景」を買って帰りました。
映画を引きずった気持ちのまま読んだら、
笑ってしまうところがたくさんあって、
泣いたり笑ったり忙しい毎日です。
映画「劇場」、行定勲監督の暗い感じととても合っていたし、
音楽もよかったので、アマゾンプライムではなくぜひ”劇場”で観てほしいですね。
次は何の本を読もうかな。
追記:「何度も反芻する」は重複表現な感じがしますが、リズム的にはすっきりするのでそのままにします…
もっと
地道にやっていこうと思います。
なんだってよいさ。
どうにかなるのよ。
少し前に読んだ本に、
文章の上達には、ともかく毎日書くことだ、と書かれていた。
毎日書いて、それでもだめならよっぽど才能がないのだと思ってあきらめること。
でも毎日は、むりだあ。
きれいにできた文章しか載せたくないと思っていたけれど、
読んでいる人なんてたかが知れているじゃないの。
と考えて、やれるだけやってみようかと思っている。
何をしていても満たされないという感情が常にある。
だけど、何かを書いているときと書き終わったときは、唯一満たされる。
自分のために、月一なんて言わずに、コツコツと書いていこうかな。
このブログ、本当に自分に正直に書いている。
だから、自分でも結構読み返すし、読み返したときに昔の自分に簡単に出会うことができる。
そして、救われることもしばしば。
とても深い日記。そんな感じ。恥ずかしいけれど。
まだ月曜?って久しぶりに思った週
仕事でそこそこのミスをしてしまって、ほかの仕事もいっぱいなのに2日で原稿を書き上げなければならなくなり、週明け早々なかなかの残業でした。つかれた〜。
わたし、すごいがんばったし、普段もすごい真面目にがんばっていると思うけれど、みんなそれ以上にがんばっているのに文句言わずにやっていて、わたしのがんばりなんて大したことないように思えてくる。(わたしは心の中で文句ばっかり言っている)
今回に関しては自分のミスで起こったことなので全くもって仕方がないのだけど、上司はめちゃくちゃ忙しい中ちゃんと向き合ってフォローしてくれて、終わったらほめてくれて、なんか本当に偉大だなぁと思いました。
ほかの仕事でもてんやわんやしていたら、教育を担当している後輩が自分からすごい仕事を手伝ってくれて、とても助かった、、。なんて、自分の先輩がブログで書いてたらなんかいやよね…!もうやめよう。
仕事は去年より責任が増えた分、精神的に大変は大変だけど、去年より辛くない、今のところ。(←ここで今のところとか言って保険かけちゃうのが自分のマイナス思考を表しているなぁと思います)
なんて、最近は仕事のことばかりぐるぐるぐるぐる考えてしまいます。やることがないのよね。
テレワークはもうしばらく続きそう。ひとり暮らしをする予定だったけれど、プリンターがないと家で仕事できないし、行かない会社の近くに住む必要もないのでこちらも延期だなぁ。ちょきん。
緊急事態宣言中にまあまあ料理していたので、なぜか料理だけ上手くなっている気がします。来週のお弁当どうしようとか、そんなこと考えるだけでもちょっと楽しい。どうせ食べるなら美味しい方がいいもんね。
息抜きしたいね!
はやく寝ようよ
今週の目標は、早く寝ることです。
と思った矢先、今週の仕事のスケジュールを見て、あれ?もう無理じゃん??と詰み始めています。どうもこんばんは。
突然ですが、睡眠ってとても大事なんですね。
少し前に養老孟司のバカの壁(姉が捨てようとしていたゴミから抜き出した本)を読み、現代人は睡眠をおざなりに考えている(意訳)と書かれていたことに妙に納得したため、そこから少々睡眠に関する本を読みあさっています。
人間は人生の三分の一を寝て過ごし、睡眠を取らないと異常をきたす。それくらい大事な機能なのに、なぜか現代人は睡眠時間を無駄な時間のように考えてしまう。
いろいろ読んでいてわかったのは、睡眠は"休む"時間ではないということ。下手したら覚醒しているときより活発に脳が動いていることもあるらしい。だから、睡眠時間を削ってしまうと脳のその活動を減らしてしまう。ただ単に休むことが目的なら、横になっていればいいだけだもんね、たしかに。
寝るってほんとなんなんだろう。。読めば読むほど深くて全然解明されていなくてとても面白い。
それから夢ね。これも面白い。いったい全体何の意味があるのだろうか。
これも書かれていたことなんだけど、夢って100%主観だよねって。その内容を言語化したり、絵で表したりは出来るけれど、実際にその様子を見ることができるのって、本人だけ。だからなかなか解明されないんだろうな。盲目の人とか、生まれたての赤ちゃんとかが見ている夢は、どんなものなんだろうか。
予知夢とかもよく聞くけど、それを証明できる人って本人しかいないよね。それでも予知夢って言葉があるくらいだから、本当にあるんだろうなぁ。
みたいな感じで、ふむふむといろいろな本を読み、まぁ結局のところどの本もちゃんと寝なさい、と書いてあるわけで、私は今めちゃくちゃ寝たい時期なのです。
幸いテレワーク続きの毎日なので、以前よりは寝られている気がします。
ただ徐々に仕事量が多くなり…出勤日は帰りが遅くなりがち。
だから、今週は23時を目標に寝る。ただひたすらに、寝るためだけに生きますね。
とか言ってる時点でもう22時(未風呂)なので多分無理ですね。